「なりたい」より「居心地よい」自分を目指せ。
ある異業種交流会。4人の起業家と区議(いずれも35歳以下)をパネラーに迎えて「決断」をテーマに話し合われた。(というより、私を含め話したい奴が声をあげていたが)
5人のパネラーの共通点はサラリーマン経験があることと、ある種の挫折を味わっていることであった。さらに一人を除いては、学生時代からの念願で今の職業についたわけではなく、周りの流れに沿って転職を決断した(いや、させられた)という。
色をつけないためにも個人名をあえて避け、5人のうち2人の状況を追っていく。
元広告代理店勤務の区議の例:
地元商店街が広告代理店ともめる→自前で広告発想をもつ人物をと商店街が区議擁立を要請→3年後に立候補・当選。
現在、投資系?コンサルのCEO:
東大理系を1年で中退→某旧帝大の法科に再入学→某商社の採用内定を受ける→留年→某商社の再内定を受ける→再留年→某商社は激怒、当然門前払い→すでに1浪2留年のため、日系企業への就職を断念→米国系投資コンサルに拾われる→客先の某メーカー(日本企業)に拾われる→独立
いずれも「気が付いたら、そうなっていた」事例だ。
よく、「なりたい自分」をめざして転職しようとうたう宣伝とか、
あるいは起業しませんかというセミナーが開催されているのが目立つが、
自然の流れに逆らってまで、それらの決断が成功した事例を私は聞いたことがない。
先述の区議にせよ社長にせよ、周囲の環境変化に従って、「では、居心地がよいのはいずれか?」と悩んでいる。そして、選んだ(というより振りまわされた)選択の延長線上に今があると。
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なりたい自分。
強制的なまでに、職業選択や経済活動の自由が叫ばれるようになったのはここ最近の話である。我が国でいえば、バブルの崩壊(そういえば昭和陛下の崩御と時期が重なるなあ・・・)以後のことだ。
なりたい自分を煽って、数値目標の追求(=財産の増加、金欲)を増進させ、起業や投資などを活発にさせるのは、自由競争=資本原理主義の基本である。
細かく言えば、たんすや銀行の預金ではなく、自他を含めた新規の起業によって資本を払い込まれる(自分なら出費、他者へならすなわち『投資』)量が増えれば増えるほど、資本原理主義の世界では喜ばれる。資金を動かせる幅が広くなり、すでに資本を持つものにとってさらにその財を増やす機会が生じるからだ。(拡大再生産)
ただし、資本原理主義の弱点は、何事も資本を作り出せる力=資金量だけで、物事の強弱が決まってしまうことにある。資金量を持たない人間は自動的に敗者である。その、多くの敗者が行き場を失って、社会の根太を腐らせるのが最大の課題だ。アメリカを見ればすぐにわかる。
もともとの日本、あるいはヨーロッパ諸国、加えて1950年代までのアメリカは、資本原理主義には行き過ぎないように、経済的敗者・弱者の救済機能を持ちあわせる努力をしている。セーフティネットと言われる、それらの救済機能はいわゆる「福祉」に当たる。公共投資等で貧富すべてに対する資金循環をめざす「ケインズ主義」や「社会民主主義」、「第三の道」もこの発想だ。(日本では社民党ではなく、民主党の大部分や、小泉系・森派を除いた自民党がこれにあたるかと。)
もちろん、社会貢献や納税の義務を果たさないまま、福祉の権利を得ようとする輩が発生する課題はある。ただ、資本原理主義に比べれば、ぐっと人間的温かみがあり、なにより情緒がある。俺はこの発想のほうが好きだ。
("情緒"は、藤原正彦先生「国家の品格」のパクリです。)
この温かみというのが、「居心地のよさ」だ。
全ての人間が、アメリカやヨーロッパの一部に多い、自由競争主義者になれるわけではない。
皆が「なりたい」をめざせば、必ず衝突が起こり、やがて戦争の火種となる。
最近の「共謀罪」法案も、「なりたい」自分が犯されるのを極端に恐れる方々が持ち出した話だろう。日本国内の政治家というよりも、海の向こうにいる協力者(というより「なりたい自分」を煽っている人々?)が恐れているかもしれない。
そんな「なりたい」にこだわりすぎる人が、辛そうに見える。
人間も自然物の一つのはず。
自然に流されて生きるのも、ヒト本来の姿ではないだろうか。
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