不合格の価値。
「そういえば、シスアド資格もってるんだって、俺も取ろうかな」
と話し掛けてきた先輩に、
「持ってますけど初級です、先輩ならすぐ取れますよ」と答えた。
よく周囲にも話すことではあるけど、ある行為の許可を受けるもの(=たとえば医師免許とか自動車運転免許)ではない限り、資格は経験の後についてくるものだと思っている。先述の資格にしても、幸いにして私がそのような職務についていたから取れたものであり、その知識や見解は、勝手に職場の同僚やお客様からもらったものだと言える。あらためて感謝せねばならない。
だが、この初級システムアドミニストレータ資格は、勉強する形でも十分にとれる出題範囲であるようだ。
同じ大学の文系を出た後輩が、それという職務経験もなく学生時代に合格したというから、まあそんなものだろう。もっとも、彼女は才媛であり、この手の知識をすばやく身に付けられるポテンシャルがあったのだが。
では、こういった形で資格を取得する人がいる一方で、勉強しても試験に落ちる人がいるのも事実だ。
現に私も、情報セキュリティアドミニストレータ試験については不合格通知を受けている。
「不合格」という結果もあるもんだから、その資格に合格したということに価値が生まれ、客観的評価材料としての担保が生まれるのは間違いない。
ただ、その資格が「免許」でないかぎり、合格にしたからといってその仕事の出来が良いとは限らない。
不合格の理由にしても、向き不向きの問題のほか、たまたま出題された範囲をカバーできなかっただけかもしれないし、文章能力がずれていて試験官に納得させる筆記回答ができないというケースもあるだろう(事実そういう先輩が別にいる…話すと明快、書くと迷解)。
資格とはそんなものだ。
便宜上、ある一定の知識・技能の範囲を設定しておいて、その枠内でどれだけできたかを競わせて、上位者を認めるという仕組みだから、今後とも能力が保証されるものではない。過去の一時期の能力を示す情報に過ぎない。
と、こんな言い方をしてしまうのは、ガキのころから俺は「資格」というものが嫌いでならなかったからだ。
致命的に短期記憶力が悪いせいもあるのだが、水泳、そろばん(結果は連盟3級)など、民間の技能検定に負けつづけた負い目のほうがはるかに強い。要は、ひがんでいる。
だが、今思えば、不合格になったからといって、なんらかの不利益があっただろうか?
むしろ、不合格でも、受験のために身に付けた知識や技能は、確実に別の分野でも生かされる。
つまり、資格の価値は、合否に関わらず「努力の認知」という側面にある。
資格があれば、知識・技能を向上する目安になる。
俺のような変人はともかくとして、多くの人々はなにかの「よりどころ」を求めるものだ。単に内的努力の自認だけでは、職業的プライドや向上心を保つことは難しい。だから他認の手段として「資格」が発生したのだと思う。(本当かどうかは知らんが)
たとえ、その示された出題範囲が現状からずれていたとしても、それを補う個々の職業人の努力がやはり別の知識や技能として蓄積されるだろうし、どうみてもプラスだ。資格が別の派生知見を生むこともある。(シスアドなんかは、この「ずれている」部類かな)
さらに続けると、民間の技能検定(マイクロソフトがやってるようなやつ)のように、ある企業や勢力が保有する技術を外に漏らさない目的をもつ資格についても、それを勉強した人々が検定企業を凌ぐ技術を身に付ける可能性をはらんでいる。
つまり、その知識や技術のアホらしさに人々が目覚める可能性をも、「資格」は提供してくれる。
「まあ、落ちても知識がつくからね。君を目指して勉強するよ。」
自分が持っている資格について言われて、やっと価値がわかった。
同じことを後輩に言われたはずなのに、先輩に言われてやっと深く納得できた。
(先輩も一種の「資格」であり権威であることも、あらためてわかった。)
相変わらず、オレはアホやな…
まあいいか。
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