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お笑い県民性分析2(評価基準と滋賀・千葉)

 というわけで、全国展開を決意しやした。

 原則として、その出身者に観たことがある芸人3人かつ、直接の知人が3人以上いる都道府県については書くことにし、どうしても実体験が伴わない地域は言及を避けようと思います。(東北の日本海側とか山陰あたりが苦しいな・・・)

 んで、さらにわかりやすくするため、定量評価も加えようかと。
 xy軸で分類しやすいよう、2つの基準で5点満点で採点していきます。

  落ちの手法:妄想(自尊・独自価値観)←自在→自虐(自ら落ち)=x軸
  話の進め方:アナログ(感覚)←→デジタル(パターン化、形式化)=y軸


 正直なところ、どちらが上でどちらが下というのはないから、「自尊3」とか、「アナログ2」のように書き、0はそれぞれ、「自在0」「デジアナ0」のように表記します。

 おさらいをかねて、前回の4府県を評価するとこんな感じです。

  兵庫 自虐2、アナログ1
  大阪 自在0、デジタル4
  京都 妄想5、アナログ3
  奈良 自虐1、デジタル2

 ここにきてお気づきかもしれませんが、両者の合計値が0に近いほど多くの人に理解される笑いといっていいでしょう。また、合計値が大きくなればなるほど、大受けする可能性と大きくすべる可能性の両方をはらんでいるといえます。(つまりそのような地域はプロとアマの差も大きい。)

 では、第二弾に入ります。
 リクエストに答えて滋賀県と、関東では一番書きやすそうな千葉県をとりあげます。


 滋賀県の傾向【妄想2、デジアナ2】

 京都に近く、独立自尊の傾向がある。が、商人の地らしく、無駄な笑いはとらずじっくりと気をうかがう傾向が強い。比較的筋・ストーリーを立てた展開を好む。このため「ボケ」の道をとることも、「自ら落ち」の道を選ぶことも少ない。兵庫や岡山のような自虐タイプと組むと道が開ける可能性が考えられる。(なんか、占いみたいになってきたで)

 大木ひびき、ジャリズム・渡辺あつむ、テツandトモの「テツ」、
 ※ダイアンは両名とも滋賀県出身らしいが、観たことがないので評価できない。
 ※そういえば、京都とならんで女子高生のスカートが短い地域。関係ないか。
 
 千葉県の傾向【自在0、アナログ2】

 田舎と都会の特性を併せ持っているせいか、持ち上がることも下げることも可能。特に妄想に走ったときのパワーはすさまじく、東日本有数の牽引力を発揮する。東京と接している地域は下町であり、いわゆる「自ら落ち」の傾向が強い地域。このため、落とすことも「おしゃれ」「粋」のひとつとしてとらえ、難なくこなす。要は自然体に強い。
 弱点としては、関西のそれにくらべて話の膨らましようが若干薄いところだろうか。ともかくも、友人にして損はない県民性?だと、俺は勝手に思っている。

 浜田幸一元代議士(芸人扱い)、ヨネスケ、きたろう、小堺一機、ゆうたろう、ペナルティ(両名とも)、まちゃまちゃ(=魔邪)、劇団ひとり、南海キャンディーズ・山里(=山ちゃん)、
 ※カリカは両名とも千葉県安房の出身らしいが、これも観たことがない・・・
 ※キムタクも当地の出身ですなあ・・・

 
 今回はこんな感じで。
 引き続き、ご意見・苦情?をお待ちしております。

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お笑い県民性分析1(兵庫・大阪・京都・奈良)

 上方落語の巨頭、亡き桂枝雀師匠はこう言った。

 『笑いとは緊張の緩和によって生み出される』
 気を張り詰めているところに、気が緩む展開になると面白くなってしまう。というところか。
 緊張の緩和とは、すなわち「落ち(下げ)」である。
 ご参考:ウィキペディアの「落ち」項目へ(枝雀師匠独自の4分類法についても記述あり。

 つづいて、母校の名物教授・木津川計先生は、京阪神3地域における笑いの差を楽器に例えられた。

 神戸は金管楽器、大阪は打楽器、京都は雅楽器の世界や・・・

 「笑いをとる」つまり、人との間柄を打ちくだく際の手法にはそれぞれの個性がでる。緊張状態と緩和状態の落差をどのように作るかがポイントと考えればわかりやすいかな。
 そこで、前述の京阪神の差を現代のお笑い芸人を例に俺なりに解説する。
 我が地元・京都を後回しにして、神戸(兵庫県)からいこう。

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いじめ自殺を考える諸君へ

 「いじめ」を苦にして、自殺したいなんて考えている方々へ。
 俺は直接反撃に出るが、そうもできないから悩むのだろう。

 だったら、その苦しみをできる限り公開したほうがいい。

 親、教師、友人、親戚、地域社会。
 そのすべてが信じられないなら、全くの他人でもいいから状況を一挙に公開すべし。人前にさらすべし。そういう意味で『登校拒否』ぐらいはありやと思う。その間に情報をしっかり広めておく。
 結果がみたいでしょ・・・だから生きてろって。

 …とはいえ、自分の心情や立場を吐き出せないから、「死のう」と思うんやろうねえ。

 俺だって、「死にたい」と考えることはある。

 むしろ、そういうことを全く考えたことがない人のほうを、俺は不思議に思うし、何も考えてないのではないかと勝手に疑ってしまう。
 全く脳天気なのもどうかと。

 「いじめる側」「いじめられる側」のどちらにも立ったことがない人、いやそれを自覚したことがない人って、人生経験の3分の1ぐらいは欠落してるのではないだろうか。
 『あっ、私の立場っておかしい?』って思える感受性が、周囲や他人の思いを察するきっかけを生み、やがては社会の動きを読む力になる。この修行を早いうちにやらなかった人は、社会に出て苦労しているケースが少なくない。

 俺なんか、役員と根本的な仕事の進め方で口論して評価を下げられるわ、何年たってもお俺をにらんでくる先輩上司はいるわ。(といってもごく少数だが)

 でも全然平気や。

 いじめいじめられて、鍛えられていた。
 地元の連中が、そうやって俺を育ってくれたから。
 たとえその時はいじめいじめられ合う関係でも、のちには修復することがあることが、二十歳になる前にわかった。
 さらに、いざ東京に出てみると、地元の連中が面白い人材ばかりだったと気づかされた。それだけ個性が強いから、俺のはみ出た言動に対してもしっかりと反応して、抑えることも引き出すこともしてくれた。たとえその形がいまでいう「いじめ・いじめられ」の形をとっていたとしても。ともかくも、俺は恵まれている。

 いじめいじめられて、鍛えられるんよね。
 最近のそれはもっと陰湿なものかもしれないけど、そこから這い上がってきた人は間違いなく強い。
 ただし、いじめる・いじめられる、どちらの側にいたとしても、相手の心情を推し量ろうと努めてきた人(事後でもいい)に限りますよ。今でも何とも思うてないヤツはもうアカン。

 他者の心情や経験を知りたければ、
 いじめられる側やったら、学校全部休んでいろんな本を読んでみるのもええかなあ。
 いじめる側は、なかなかそうもいかんやろうから、孤独を感じた時にそっと文庫本でも読むとよい。

 …って、難しいわな。

 いじめる側・いじめられる側にいた経験自体は恥ではない。
 それで考えて次の行動に生かせなかったヤツが、恥以下なのだ。

 戦争に参加した(させられた)人自体を責めるのではなく、それで反省しなかったバカが恥以下だ。
 ナポレオン帝政(1世と3世)のフランスとか=滅亡、ソビエト連邦とか=滅亡、ナチスまでのドイツとか=二回も大戦惨敗、二次大戦までのイギリスとか=世界帝国から転落、二次大戦以降のアメリカとか、病的に他教徒を否定し続けるイスラエルとか、アフリカの部族対立とか…
 あ、みんなやってるな・・・日本もそうか。
 建国800年とかいうてるモンゴルも侵略戦と現地調達の末に滅亡するわ、中国もインドもみんなやっとるなあ。

 そないに人間は賢うないで、もちろん俺を含めて。
 あきらめて、現状を認めて気楽に生きることも肝心かもね。

 話がずれそうや、こんなもんでやめとこう。

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「いじめ」の理由2

 書き忘れていたことがあった。
 出自とかに関係のない、いじめの理由だ。

 とその前に、
 デリケートなネタなので、前回記事とあわせて1月20日ぐらいには削除するので、お早めにお読みください。

 これも経験で書く。
 いじめられる側にも原因があるという典型例を紹介しておく。

 1.窮地に陥いると泣いていたら、攻撃の対象に。

 わかりやすい事例だ。本当にか弱いヤツは決して本格的にいじめられない。
 が、俺のようなヤツが泣いていると、「何が泣きよって」と大きく反感を買い、叩かれる。

 2.相手が反論できない話を吹っかけたら、攻撃の対象に。

 弁の立つ人間にやり込められると、立つ瀬がなくなるのは誰でもそうだと思う。
 俺などは口喧嘩するつもりもないのに、よく相手をやりこめては楽しんでいた。ついでに悪口ととらえられるような突っ込みまで浴びせると、もう笑えない。相手は腕力に物を言わせてくるのである。

 3.相手にしてもらいたいからと、攻撃してくる輩もいる。

 これには閉口した。2.までの場合はこっちも腕力(分が悪くても、なるべく公開戦でやる→不利なら同情を集めて停戦に持ち込めるし、有利なら素直に勝てばよい)で応戦すれば、事は収まったのだが、理由が「相手にしてもらいたい」だからどうしようもない。応戦すれば喜んでエスカレートするし、無視すればかまってもらいたいとエスカレートする。
 そのうちの一人・B君に対しては、体育の授業でサッカーをやっている時、他クラスの女子が教室から観戦している前で殴打してやった。A君と似たケースである。
 が、B君は違う。
 『みんなの前で殴られて、俺は恥じかかされたんやぞ』と、さらに追い回されるようになった。

 まずい。百年戦争の臭いが・・・

 とうとう家までついてきたので、観念した俺は、
 包丁を持ち出して追い返した。
 『帰れ、ボケ』
 本当に疲れるやつだった。

 で、B君が発した最後の一言が
 「俺、お前のことが好きやから、こういうことしてまうねん…」

 なるほど・・・
 嫌い嫌いも好きのうちか。
 黙って仲良くしてみたら、Bは俺を「やられキャラ」に扱えると勘違いしたのだろうか。そういえば彼は小学校の6年ぐらいで転校してきている。3小学校区強を集めた1学年10クラスのマンモス中学校に来たとなれば、友達づきあいが浸透しづらいのも当然で、ストレスがたまっていたのだろうか。

 中学3年、少しだけ大人になった。
 人それぞれ辛いのだ。

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「いじめ」の理由

 いろいろ参考文献をひっぱろうかと思うたけど、やめた。
 俺の経験で書く。(が、個人性を消すために、一部フィクションを交えておく。)

 京阪神圏某所。我が故郷は複雑な土地柄である。
 特に、東京圏の方には想像しがたいだろうが、よく大手企業の人事部とかが掲げている「人権擁護」の対象になるような光景をよくみかける。
 今でもそうだから、おれの子供の頃(もう、20年ぐらい前になるのか)はさらに露骨だった。

 子どものころは、いじめられたり、いじめたり。
 いじめられたら、やりかえす。5回中4回は成就したはずだ。

 『やりかえし』が成功したとはいえないケースが、2例だけある。
 そのうちの一例が、先述の「擁護」にかかわる状況だとわかったのは、随分後のことだった。

 A君とは仲の良い時期も悪い時期もあった。
 小学生時代は互いの家を行き来したが、中学になってから、なぜか俺を狙い撃ちするようになる。
 といっても一対一だから、『いじめ』のうちに入らないかもしれないが。

 ともかくも、しつこい。
 朝の登校時というのに、何度も何度も傘でしばいてくる。
 こういう相手には、衆目の前で叩いてやるに限る。
 校門に入ったとたんに一気に逆襲してやった。

 が、今の俺ならわかるが、この発想は拙い。
 恥をかいたと思ったAの攻撃は、より頻度を増した。

 百年戦争が見えてくるとアホらしくなり、俺はやられるに任せるようになった。

 …
 その光景をみた我が父が切れて、Aと俺を殴り倒した。
 『どっちも情けないわい』

 俺は一切の弁解をしなかった。
 最近になって、すでにやり返したうえでの状態だったことを話したが、父は一切覚えていない。まあ、そんなことは良い。ショックだったのはAの出自だ。

 ずっと地元の母に、Aが「人権擁護」の対象にあたることを聞かされる。

 思い出せば、Aはあたりかまわず人を攻撃していた。
 そうか、Aはうっぷんがたまっていたのか。

 Aの存在は俺が地元の公立高校に進学した時点で、多くの同級生から忘れられる。
 当時の年間学費はわずか8万円。それでも、進学させるだけの余裕がなかったのかもしれない。
 誰それを妊娠させたとか、根拠不明の噂だけが残った。


 俺の想像があたっているなら、「いじめる」側も何かに追い詰められているという典型例になる。
 『人権擁護』の対象、すなわち子ども自らが被差別と自覚した時点で、いじめられるか、あるいはいじめる側に回るかの確率がぐっと上がる。
 子どもにしてみれば、自分には責任がないのに、社会生活が狭められた気持ちになる、つまり絶望だ。被虐自責型の人(いわゆるM)なら、気が弱くなったところをいじめられる。加虐他責型なら、いずれ暗い目でみるであろう周囲に先制攻撃をしかけるだろう…
 
 仮にある人権擁護ネタつまり差別ネタを撲滅したとしても、別の尺度が登場するのは間違いない。職業、学歴、容姿、情報リテラシーとか色々な差別予備軍がある。
 最近になって「いじめ」が増えたのは、この新たな差別尺度が影響しているのだろう。貧富の差とか、子供同士でもわかる境遇の違いがそうだ。貧乏なら貧乏の苦楽、金持ちには金持ちの苦楽があるはずだ。「勝ち組、負け組」といわれて久しいが、片側にしか良さを見出せない視点こそ貧しいのではないか。(そもそも、総中流社会になったこと自体が奇跡だと思う。)


 あらためて、A君がらみの話を。
 時間をさらに巻き戻して、仲が良くなる以前のAとは知り合い程度の関係だった。

 小学2年生ぐらいだったと思う。
 いろいろとバカにされた弾みに、
 『もう死んだるわ』と、俺は教室の窓の枠を越えようとしていた。

 『ほんなら、死んでみい。』
 さらりと言ってのけたのは、若干7~8歳のAだ。
 
 子供心に、注目を受けられないのなら行動を起こしても無駄だと、すぐにやめた。
 すると、Aは俺を責めなかった。むしろ仲良くなった。
 
 思い返すと、Aはなかなかの好人物であることがわかる。つまらぬ伝統による差別が彼を屈折させたと考えるのは、このあたりにもある。ほんまに良えヤツやったのに、余計なことを後で知ったから豹変したのだろうと。
 もし本当にそうだとしたら、なんとも嫌な話だ・・・
 (差別が原因でいじめ側に走ったと考える俺の発想自体が「差別」だというのも事実だ。難しいところではある。)


 話をもどすと、Aの『死んでみい』発言は大いなるヒントだ。
 いじめを苦に自殺を選ぶ子どもが増えているのは、
 『最後に目立ってみせて、周囲に知らしめてやる』との思いがあるからではないだろうか。
 そら、ここまでマスコミや官公庁が騒げば、そう思うわな。
 
 …生きてるうちに、文句つけろよ。…こっそりで良えから。
 もし、これ読んでる若者がいたら、俺にメールくれ。
 直接行って助けるのは難しいけど、知恵は出せるから。

 報道がエスカレートすればするほど、
 「いじめ自殺」をある種の解決手段??として捉える子どもは増える。
 人権擁護を叫べば叫ぶほど、
 「こういう人は差別される対象なんだ」という意識も代々受け継がれてゆく。

 そうすることで儲かる人がいるんだろうか。
 儲かる奴らを叩き潰すことが、本当のいじめ撲滅かもしれない。

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520円と17才

 俺の時給と実年齢のことではない。
 すべて今年に入って・・・つまり元日の出来事だ。

 実家のある関西から3日に東京へ移動するとなると、確実に混雑に巻き込まれる。だから、ひかり号かつ自由席を選んで元日に移動すると随分楽になる。値段も安い。

 そこへ、友人が一家で伊豆に出ているとの話があった。
 だったら、予定があえば三島から車に乗せろと言い、まず京都から三島までの切符を買うことにした。

 『もし、川崎(=横浜市内扱い)まで行くことになったら、差額を払うたらいいんですよね?』
 『追加を払えば大丈夫ですよ』

 新幹線は三島で終わりとして、乗車券は追加の対象か。
 京都駅の駅員(JR西日本)の言葉を信じて、6,300円の乗車券を買う。京都から横浜市内までなら7,670円だから、川崎まで改札口を出ずにいれば1,370円の差額払いで済むはずだ…

 この時点では、まさか、2004年のスイス国鉄ぼったくり?以来の運賃トラブルになるとは思わなかった。

 友人は、大方の予測どおり、親の勝手で横浜まで車で行ってしまったらしい。
 相変わらず、適当な予定しか立てない方々だ。

 俺は三島でひかり号を降り、新幹線改札を出る時に
 『このまま川崎まで行くことにしました。』と問いかけると、
 『では、そのままお乗りになって、着いたらお支払いください』
 と三島駅の駅員(JR東海)から言われた。

 東海道線に乗って2時間弱、川崎に着いてみると自動精算機では扱っていない。
 やむなく改札出口の駅員(JR東日本)にお願いしてみたら、

 『1,890円お願いします』
 と言いよる。

 ハァ?
 三島-川崎の一般運賃を払え? 

 『約款持って来てください』
 と俺は怒鳴りつける。口調だけは丁寧に。

 もって来た業務用時刻表(といっても、見た目は大して市販と変わらない)には、 「差額」の文字が。

 『もういっぺん、確かめてください。』
 とあらためて怒鳴る。もちろん口調は丁寧に。でも関西弁。

 すると、

 よく読んでみると

 乗り越しで通し運賃との差額を払うだけで済むのは、100キロ以内の区間と一部の例外らしい。
 長距離の場合は進行方向の変更とかでない限り、もとの切符の着駅を起点として、あらためて計算した運賃を払えと。
 Jr
 なに~!?

 川崎駅の駅員(JR東日本、もとい東日本旅客鉄道株式会社)は、『お時間をとらせて済みませんでした』と謝るが、俺は1,890円を払いながら『いや、JR西日本、もとい西日本旅客鉄道株式会社さんのせいです』と言って、改札を後にした。

 都合、520円を損した。
 新年早々、験が悪い。

 だいたい、この友人の母に、友人兄弟が食べたがらなかったという、それは不味い不味い不味い「バナナアイス」を食べさせられて以来、俺はこの一家の勝手さ加減に対してトラウマになったことがある。そのことを思い出しておけば、三島で車に乗せてもらえる可能性を信じずに、初めから通しの乗車券を買っていたのだ・・・俺がアホや。

 ゆっくり怒りを忘れつつ、
 飯を食って、東急ハンズに入る。


 アタマスキャン

 俺より少し年上の夫婦がえらく真剣に試している。
 脳年齢をはかるツールらしい。
 あと2台やってみたので、俺もやってみることにした。

 「脳の老化は20歳代から始まっています」
 31歳の俺は老化の最中らしい。

 17
 結果・・・

 17才??
 老化どころではなく、若すぎるってことか??
 
 にしても気分は良い。
 俺は若い若い若い。まだまだやれる。
 

 …ん?
 20歳未満の判定が出たってことは、
 「ガキ」ということではないのか!?

 確かに俺は、
 420円の損で怒り、17才判定で喜ぶようなヤツだ。

 若いというか幼いらしい。
 複雑な気分で、俺の1年が明けた。


 今年もよろしくお願い申し上げます。

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