« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

頑張り間違い。

 たぶん、これはわかってもらえない。
 とりあえず頑張り屋が礼賛されやすい、昭和の成長期を知る先輩方にはこの発想を受け入れてもらえない。

 『まず対象の状況を考えてから動くほうが、効果が高い。』
 おそらく、頭でわかっていても、「まず動きたい」気持ちが優ってしまうのが、昭和の働き者である。時代背景もあって「上司の期待に答えたい」と上意下達の駒にならざるを得ない、つまり団結意識も強いはずで、上役の指示なら考えずに頑張る傾向もあるだろう。

 売り上げや税収が無尽蔵に拡大する時代ではなくなって久しいのに、不幸にも拡大しか味わっていない世代にとって、「当事者各自で、投資効果や収支を考えた行動を」というのは死刑宣告に近いのかもしれない。。

 また日経の記事になってしまうが、片山善博氏のコラムから。


 「『頑張らない宣言』の増田新総務大臣に期待」(2007/09/10)

 そこで是非思い起こしていただきたいのは、つい数年前のことである。当時財務省は自治体の「ムダ遣い施策」をあれこれ列挙し、マスコミがこれに飛びついたこともあり、結果として世論の自治体批判と地方交付税削減につながった。

「頑張る」という言葉に潜む曖昧さこそ危険

 しかし、よくよく考えてみればこれらの施策は過疎化と少子化に苦しむ自治体の窮余の一策であり、乏しい財政事情の中で精いっぱい「頑張った」結果なのである。同じようなことをして頑張っても、ある時はこっぴどく批判され、時が変われば「よく頑張っている」と褒められ、優遇もされる。なぜこんな無定見なことがまかり通るのだろうか。それは、ひとえに「頑張る」という用語の曖昧(あいまい)さによるものである。たしかに何かに力を入れている姿は見てとれるが、それがある人にとっては称賛に値する行為にも見えるし、他の人にとっては実にくだらないことをしているとしか見えないのである。

-中略-

 幸い増田新総務大臣は岩手県知事時代に「頑張らない宣言」をした方でもある。過去から今日に至るまでやたらに頑張る自治体を支援したがる総務省の「勘違い」を正すにはうってつけの大臣だと大いに期待している。


 片山氏は鳥取県、増田寛也総務相は岩手県の前知事である。
 お二方とも団塊より後の世代で、頭が柔軟な40歳前後までに高度経済成長の終焉やバブル崩壊に立ち会っている。
 少なくなる一方の税収に悩み、まず知恵を練ったという経験も共通している。

 そこへ、従前の総務省や財務省が中央のものさしで、『お前は頑張っている』などと資金を融通したり、逆に批判したりするから、悩む地方官僚はやむを得ずそちらを向いてしまう。
 で、地方交付税を国から獲得すべく頑張ってしまい、肝心の地方経済振興とか社会福祉政策とかはどんどんほったらかしになってゆく。しかも、上意下達意識が抜け切らないから、さらに悪い。

 増田総務相はそこらの苦しさを実体験しているから、『私は中央の主管大臣としてがんばり過ぎない。地方個々の知恵にまず任せたい。』ということだろう。


 一サラリーマンである私も面倒な経験をした。
 コストダウンがしつこく叫ばれる業界に勤めている。

 着任間もない、まさに団塊世代にあたる役員が、「メール連絡をやめ、新システムを用意しろ」と言い出したので、抗弁した。同報性の高さや構造が単純なことによる利便性。そして新システムを構築する場合のコストなど・・・

 単純な「頑張りたがり」はコストダウンにも反する。
 結果は物別れになり『お前、屁理屈や。』と言われるも、話を流すことには成功した。
 ただし、彼に抗弁するコストの高さに気づいた私は、これを最後に議論していない。

 彼は人間的には好ましい方だ。出張をともにした時などは結構話しているし、実は筋の通った主張が多くて感銘している。
 
 だが、「頑張りすぎる」難点が依然としてある。
 最近は他の分野にも手を出した結果(これも頑張りすぎの一端か。)、現場への妙な指示も減ったものの、以前としてその課題は残っている。

 そのうち私の部課は、硬軟(「軟」が多いが)取り混ぜて、無理難題をかわすものだから、「言うことを聞かない連中」という名誉のレッテルを貼られた。江戸時代における薩摩藩のような位置づけになっており、ある意味で気楽である。


 すると、その薩摩藩が、同役員からささやかな賞をうけた。
 無駄な保守契約を削っていることが、「コストダウン」と位置づけられたのである。

 主任は私だが、保守を削減した時期から同じチームに居続けているメンバー全員がその対象となった。

 見ているところは見ているようだ・・・
 と思ったが、私自身は賞を受けるつもりでやったわけではない。

 確かに役員から『保守契約はある種の保険や、要らんものは削れ。』と言われていて、納得した私もその方針で動いてはいた。
 賞の対象になった保守契約の打ち切りは、コスト削減目的というより、契約更新に要する手続きの時間が少なくなっていたことと、思うようなサービスを受けられなくなったのが本当の理由だ。

 それでも「コストダウン」として表彰された。


 褒めるのも、怒るのも、中央官庁や上司による主観に過ぎない。
 所詮、他者の主観だ。
 2人の前知事も官僚時代から嫌というほど味わった実感だろう。

 だから、怒られても簡単に動じてはならない。
 逆に褒められても、すぐに喜んではならない。

 『頑張る』思いのギャップは、いつの世にもあるから。


追伸:
 これで2007年最後の記事にします。
 一年間ありがとうございました。(って、勝手に書いてるだけやけど)
 喪中につき、賀状等あらたまった挨拶は失礼させていただきますが、明くる年もよろしくお願い申し上げます。

さらに追伸:こんな本があるそうです。まだ読んでませんが。

「頑張りすぎる人」が会社をダメにする―部下を無責任にしてしまう上司の法則―

| | コメント (3) | トラックバック (0)

バカは必ずしも悪いことではない。

 クリスマスは、一種の祭りだと思っている。

 祭りとは、和風に言えば「ハレ(晴れ)」の日。
 バカになることが、大いに許される時間だ。

 が、意図してバカをやることと、ホンマに「バカ」と思われる言動は別物だ。
 世界基準でみて、日本の学生の学力低下が指摘されるこの頃、特に読解力の低下について、遥洋子女史が嘆いている。日本経済新聞のサイトからだ。

 遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」 日本人はバカになったのか?

 当初ウーマンリブ的な発言を予想した私だが、読んでみると彼女の意見は筋が通っていて面白い。他の記事もうなずける。自分のバカさがわかっているという、本当の賢さが伺えた。

 一部、引用させていただく。

私はもう一度言った。
「ですから、天ぷら“うどん”ください」
「確認いたします・・・」
「しなくていいから、天ぷらうどんください」
しかし店員は確認した。
「天ぷらをうどんのほうで。おひとつでよろしいですね」
私は言い方を変えた。
「天ぷらうどんを、うどんのほうで。私は一人ですから、ひとつください」
「わかりました」
うどん屋で、「天ぷらうどん」とひとこと言えば、うどんが出てくる時代は終わった。

“読解力”というが、読んで理解する力というより、まず言葉自体がきちんと届かない。

 言葉が届かない。
 10年前にすでに似たような体験をした。

 学生ながらイベントを運営していて、自ら4tトラックを運転して会場に機器を搬入していた。

 左手の助手は男子大学生、当時2回生だったと思う。
 一方の私は4回生で、すでに就職も内定していた。
 携帯電話が浸透し始めた頃の話だ。 

「俺は運転に専念するから、携帯がなったら後で話すと言うてくれへんか。」
「わかりました。」

 しばらくして、着信音が鳴る。
 が、その学生は電話を切るどころか、私に回してきたのだ。
 ちょうど交差点のカーブを切るところ。
 『そっちの電話も切れ!ボケが!』(心の叫び)

 あらためて説明する。
「後で電話する言うて、電話を切ってくれへんか。」
「わかりました。」

 また、着信音がなる。
 また、彼は電話機を回してきた。

「どんな内容かわからないじゃないですか。」と彼は言う。
「着信履歴で誰が電話してきたかはわかるから、着信の事実が電話に記録されたらええんや。それを見て俺が掛けなおすから、『(運転中なんで)また掛けさせます、すんません。』言うて、切ってくれたらええんや。」とここまで説明した。

 またまた、着信音が。
 またまた、俺に電話機を回してきた…
 
 『もうええわ』(心の叫び)

 漫才の原稿を書いているような気分だ。
 もう、20世紀の当時からそういった傾向はあるのだと思う。

 確かに、三たび携帯電話を回してきた彼は、「携帯電話」そのものに慣れていなかった可能性がある。が、さらに10年、情報の更新だけでなく流入量も格段に多くなった今、遥女史が嘆くような状況はより増えているのだろう。

 流入してくる情報をまともに受け入れていては、読解できる規模ではなくなっている。
 選択できる情報が増えれば、人はもっとその情報を解釈して判断するかと思えば大間違い。多すぎる情報の流入を本能的に限定するケースが圧倒的に多いことを気づかされる今日。

 クリスマスというイベントも「この日こそは、家族サービスを」「この日こそは、男女関係を盛大に」という、一種の情報限定だ。

 『バシバシ、関係の宣伝をさせていただきますよ(byマスコミ各位)

 で、その消費を促す情報発信合戦を素直に受けて、深く判断しないバカになっておけばなるほど、「クリスマスはそういう日や!」と楽しめる度合いが強まる。いい時間が過ごせるはず。

 遥女史が立ち寄ったうどん(そば)屋にせよ、一回目の「天ぷらうどん」で、『はい、天ぷらうどんですね。』とすぐに返してしまえば、後はヒマになってしまう。2回ぐらい聞き返したほうが、仕事をやった感が味わえるだろう。

 やっぱり、バカのほうがいいのかもしれない。

 だが、うどん屋や三たび携帯の学生では迷惑をかけるので、
 賢いバカがいい。
 バカである自分を味わえる、賢いバカ。
 
 そのルーツ?は江戸っ子にあるのかもしれないと、かの春風亭小朝師匠のインタビューを読む。

 朝日新聞書評欄・江戸ノベルズ-日本人のルーツは江戸にある

 また一部を引用。

最近は高座に上がると客層が変わったことを実感する-。

「増えたのは、若い女性とサラリーマン。中には日中、仕事をさぼってきているような人もいますよ。今の世の中って、テンポや情報量が、人の限度を超えているんじゃないかな。それを息苦しいと感じている人が寄席に来ているような気がするんです。落語のゆったりとしたテンポの笑いや、自分と同じぐらいダメなヤツの噺に癒やされるんでしょうかね」

 ダメなヤツ、バカな自分を楽しむ余裕。
 それでゆとりが出来れば、バカの時間をやめればよい。 


 年収が俺の3倍以上ある友人がいる。
 明らかに賢くて、出来るヤツ。
 
 だが、バカの部分が少ない。
 余裕がない。(月に一度しか休みがないから当然?)
 全ての情報をいちいち噛み砕いて、判断しているというのか、端で見ていても『面倒くさ』と思ってしまう。

 そのことで、自分より出来ない人間に対する思いやりとか、あるいは文化的な深さを解するゆとりを失っているのだろうか。
 文化に対する対語として『文明的』過ぎるとと言えば良いのか、マジメに処理能力の徹底を追求している姿が、時折痛ましく感ずる。

 『今日はバカでいよう』と思う時があって欲しいのだが、
 彼はその『バカ』を、俺よりも憎む傾向がある。

 彼は、周りの『バカ』も認めてはならない環境に慣れすぎた。

 他人の仕事は50%でよしとして自分は60%平均で行こう、でも必要ならば120でも150%でもやろうと思う俺に対して、常に100%以上を強いる業界がある。(宗教ならユダヤ教、とかだろうか。)

 それに比べれば、「天ぷら"うどん"」を三たび聞き返すバカさ加減のほうがよっぽど人間味がある。
 違う『面倒くささ』はあるけれど・・・


 争いの種が絶滅することはない。

 俺もバカを含んでいるから、あなたのバカも認めましょう。

 と、適度な寛大さが、平和を築いてゆく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

タバコよりも核よりも怖いのは麻薬?

 出張先でテレビ朝日系の報道ステーションを見ていると、北朝鮮の麻薬(ケシ)栽培を取り扱っていた。かの国の貴重な外貨収入源らしい。
 ちょうど核査察を受けている裏でこの状況。

 解説に入っていた月尾嘉男先生いわく、

 「全世界で2000万人以上が中毒者で、アメリカだけで千数百万人といわれる。ロシアでは2000万人がなんらかの形で麻薬の経験があるといいいます」

 とつづけて、

 「犯罪の発生原因だけでなく労働力が次々と奪われることなど、その害は核よりも怖いかもしれませんね。」

 とのきわどくも鋭いコメント。

 ああ、これが怖いんや。と納得してしまった。


 正直、周囲を健康上の害に巻き込みやすいという点では、タバコのほうがよっぽど危ないと思っていた。

 つまり、副流煙でタール・ニコチンの毒を近しい人間に背負わせる。こどものころから俺のノドが弱いのも、ロングピース一箱を毎日平然とすっていた父のせいだろう。

 「ノドや肺の関係で病んでも、治療費出さへんで」
 還暦過ぎて初めて胃潰瘍で入院した時は費用を援助した俺だが、これだけは父に言い聞かせている。誤解を恐れずキツイ表現をするなら、その場合は勝手に死んでくれと。

 ただ、皮肉にもいや幸いにも、俺はタバコを吸わずに済んだ。
 20歳の時点で気管支炎になって、さっさとやめている。
 以来、煙を吸うのも嫌いな体質になった。


 というわけで、麻薬(や覚せい剤)は確かに人を狂わせるが、それを喫している周囲に健康上の害まで押し付けることはない。(ただしその人物が厳格や躁作用によって暴れだすことで、傷つけられるリスクは多少ある。)

 が、月尾先生のおっしゃるとおり、タバコで労働力が奪われたとか、犯罪発生率が上がるということは聞いたこともない。
 むしろ、ニコチン中毒になった方々に対してはかなり効果のある精神安定剤になるから、プラスかもしれない。


 だから、こうすればいいのだ。

 「副流煙ださないで、全部自分で吸い込むタバコにすればいいんですよ」

 今は外交官をやっている私の友人が言っていた。

 おお、納得。

 
 待てよ・・・

 タバコにせよ、麻薬にせよ、自然界の逆襲ではないか?

 地球環境にもっとも負担をあたえる生命体は、あきらかにわれわれヒト族である。
 ヒト族を効果的に減殺する効果をもっているのが、ケシの麻薬成分であり、タバコのニコチン・タール成分である。


 ・・・なんかヒト族の独り相撲のような気がしてきた。

 ようは、個々人が自覚をもってこのサイクルに巻き込まれず、自然に対して謙虚に生きることが大切だろう。

 終わり。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »