生と死の使ひ方…「明日への遺言」
あの空襲がなければ、私は生まれていない。
「アンタは名古屋人顔や」
と京都盆地を出たことがない母が言う、私の由来だ。
自動車ではなく航空機など軍需産業の中心でもあった名古屋が、一般家屋をも含む無差別爆撃にさらされたのは、昭和20年に入ってからである。人々は、「じゅうたん爆撃」とも呼んだ。
同市の中心部にあった我が家も、例外なく焼夷弾で焼かれる。「京都やったら空襲はない」と信じられていたのだろうか、その後、一家は養祖父(私にとっては養曽祖父)の実家がある京都へと移り住むことになった。
5歳だった父は、火の粉が飛び交う光景を良く覚えているという。
ともかくも、戦争と関係のない幼児まで被害者となっている時点で、明らかに民間人攻撃であり、国家間の軍事戦からは無関係だ。
我が生い立ちを考えれば複雑な思いではあるが、
無差別爆撃は重すぎる犯罪である。
映画「明日への遺言」は、名古屋空襲で無差別爆撃に参加した米兵を処刑した罪で、戦争裁判にかけられた岡田資(おかだ たすく)陸軍中将の物語である。
小泉堯史監督の静かな映像のなか、岡田中将を藤田まことが好演している。大岡昇平の小説「ながい旅」が原作だそうだ。
既に敗勢が濃厚になっていた昭和20年、岡田中将は東海軍管区司令官に昇格する。以後、度重なる空襲で名古屋を始めとする都市部は焦土と化し、数少ない防備で抗戦する毎日が続いた。
そして敗戦を迎えた。切腹する軍人が多かった中、岡田中将は残務処理をしっかりとこなし、予備役に退いた。現代人でこそ生きて後始末をすることが当然に思えるが、当時は「死ぬ」ことが最大にして最高の責任表現方法だった。
例えば、岡田中将が終戦を伝える玉音放送の事実を電話確認した所、すでに阿南惟幾陸軍大臣は切腹して果てた後だったという。
邪推ながら、この時点で岡田中将は、自らの"生"の使い方を想念していたと思う。
やがて、戦勝国による戦勝国のための戦争裁判が始まる。
陸軍省法務局による情報を元に、連合国は岡田中将と米軍搭乗員の斬首を執行した東海軍の部下を告訴した。
岡田中将はこれを「法戦」と名づけ、自らの責任と見解を鮮明に主張し、部下が非を責められぬよう論ずる最後の争いと腹を括った。
終盤になって、中将は裁判委員から重要な質問を受ける。
『処刑の判断を下したのは報復であったか、処罰であったか』
『処罰です』
岡田中将は堂々答えた。
すでにその人格に感銘を受けていた裁判委員は、搭乗員の処刑を"軍事交戦中に発生した報復"とみなして裁判の対象から外すことで、岡田中将を助命する最後の機会を狙ったといえる。
だが、中将は己の命よりも「未来」を優先した。
"処罰"として無差別爆撃の悪を明確にするとともに、
一身を持って"報復"の連鎖を終止させたのである。
そして、堂々戦う弁護人や見守る家族の支援などもあり、自身の絞首刑のみにとどめ、大西参謀を含む19名の部下全員の助命に成功する。(最終的には全員釈放される)
まさに己の"生"を最後まで使った生き方である。
絞首刑までの拘置中も、岡田中将は部下を含む若い元軍人たちをよく気遣い、励まし、明日へと託していった。
この裁判の傍聴席には、中将の孫もいた。まだ赤子だから、いわゆる戦争を知らない世代の筆頭にあたる。いわゆる団塊世代、今や日本社会の旗振り役だ。
この映画が、私を含む多くの戦争を知らない世代が、生と死の使い方、すなわち生き方を考える好機となることを願う。
明後日の、さらにその先の遺言となるように。
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