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誰もが何かを見下している。

 正直、この私がそうだから、間違いない。

 何を見下しているという確証はないけど、「コイツあほちゃうか?」と思った時に生じる、自覚のない態度によって、相手を傷つけたことがあっただろう。

 見下す対象は世の中に多々ある。
 犯罪者とか多くの人に迷惑をかけた輩、暴力・詐欺などの手段を使ってでも金儲けをする連中など、色々いる。

 その対象が一般的に「見下してよい」とされていれば、周囲の糾弾を受けないだろうが、価値観が改められた時には遅い。
 というより、始めから見下さなければ良い。

 いわゆる過去の(いや、今もか)差別問題とは、以前は「見下してよい」とされていた対象がそうではなくなった事例ともいえる。例えば、わが国における部落問題、韓国の身分問題、米国の人種差別、キリスト教徒によるユダヤ教徒・イスラム教徒差別(その逆もしかり)など数え挙げればきりがない。
 これらは、見下す対象を共有することによって、安易に団結力が得られてしまった歴史で共通している。「見下すこと」は普段の鬱憤を和らげる効果が抜群であり、差別の対象や方向性の固定は、時々の権力が民衆の暴発回避手段によく利用してきた。
 いわゆる、ガス抜きだ。

 別に、権力が対象を指定しなくても、差別による団結は発生する。
 たとえば、中国の都市住民による農民への侮蔑、あるいは愛国デモ(=周辺の地域や勢力を見下すという意味での)などは、その好例である。ガス抜きになっているからこそ、共産党政権が黙認しているのかもしれない。
 
 身近な例でも、ブログや掲示板における「炎上」状態がそうだ。
 ある言動に対して、「ひどいヤツだ」と指摘する正義感が、さらに別の正義感を呼ぶ状態だ。言い換えれば、当初の発言者を見下す対象として共有した団結が発生してエスカレートする。
 ただ、幸いにしてネット上の話だから、アクセスしなければ害を避けられる。心のダメージは別としても…


 差別による団結。
 その作用の存在は、残念ながら人間の業(ごう)として肯定せざるを得ない。
 わかっちゃいるけど、やめられない。(by 青島幸男)

 人は「見下しあってしまうものだ」という業を素直にみとめて、まずは自律に努めることだ。
 そのうえで、身の回りが誰かが、合理的な理由もなく人を見下していれば、「まあ、アイツにもいい所はあるやろう」ぐらいのことは言ってやればよいのではないか。
 
 見下される側に固定された人間は、よほど鈍感不感でなければ、己を卑下して不快感をまぎらわすか、恨みを骨の髄まで溜めて生き続ける。
 やがて恨みは見下した人間に対する反撃として具体化される。暴力なり争いなり、その多くの理由に「見下されてなるものか」という感情が含まれる。反撃が成功した場合、見下される立場は逆転して、新たな反撃の火種となる。その連鎖が、人間にとって悪い方の歴史を作ってきたことは言うまでもない。

 どこからみても悪人のような輩でも、「盗人にも五分の利」というか、かならず美点はある。だから、誰もかもが、見下す対象を固定することだけは避けるべきだ。
 

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