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豊かさへの共感と、貧しさへの共感と。

 豊かさ、貧しさの定義にも議論はあると思うが、ここで物質的な、経済的な、貧富を取り上げる。
 それを踏まえても、かつては相互の共感が成り立っていた時代があった。

 金持ちは金持ちで大変だ。
 貧乏は貧乏で大変だ。

 この図式が素直に受け止められたのは、いつごろまでだったのだろうか。
 記事を書くきっかけになったブログのリンクを載せておく。

  北京オリンピックに思うこと…内田樹の研究室

先富論はたしかに原理的には効率的な分配のために構築されたメカニズムであった。私はその点では鄧小平の善意を信じている。けれども、「貧しさへの共感」「貧しさへの有責感」を失った先富論は効率的な収奪を正当化するイデオロギーに転化する。そのことの危険性に当代の中国の為政者たちはどれほど自覚的であるか。あまり自覚的ではないような気がする。
私が北京オリンピックについて感じる不安はこの「富の収奪と偏在を正当化するイデオロギー」の瀰漫に対してである。
北京オリンピックでは伝統的な街路である胡同(フートン)がそこの住民のライフスタイルこみで取り壊されたけれど、そのことに対する懐旧や同情の声は中国メディアではほとんど聴かれなかった。こんなふうにして、オリンピックを機に北京から中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素は一掃されるのであろう。けれども、それと同時に「中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素」に対する哀惜と懐旧の気分もまた一掃されるのだとしたら、私は中国人に対して、その拙速を咎めたいと思う。

 経済が拡大する時期ほど、効率よく大規模に動くよう、富は中央に集積されてゆく。それが中国にとっては北京や上海などの沿海部であり、40年前の日本では東京だった。
 集中した富が目立てば目立つほど、周辺では「豊かさへの憧れ」が他者への共感に優先する。(たとえ事情があっても)働かない者に限らず、金持ちになろうとしない者、そしてじっくりと物事を見据えて動く者は必然的にはじかれてゆく。

 拡大の時期であれば、憧れを原動力にして稼ぎ、次の時代までの蓄えを築く時期なのだからそれで良く、今の中国大陸がまさにそうだ。が、そういう意味でも先進国のわが国は「次の時代」へ入ろうとしている。

 次の時代とは、文明が停滞して経済拡大が困難になる時代のことだ。
 科学技術しかり政治経済の制度しかり情報技術しかり、産業革命以来続いていた様々な文明の進展が踊り場を迎えている。地球温暖化が叫ばれるのも、石油の次にくるエネルギー技術がはっきりとしないことへの焦りともいえる。わが国の前例で言えば、江戸時代前半がそれに近い。火薬や採鉱・航海・農業土木など、大航海時代=戦国時代を通じた技術の発達が伸び悩み、人口を増やせるまでの推進力を得られなくなった時代に当たる。

 拡大の終了期は、当然ながら新たに豊かになれる可能性が減る。「豊かさへの憧れ」を持ち続けた者が貧しさの継続に気づいた場合、その絶望のエネルギーはすでに富める側、あるいは安定した側に怒りとなって向けられる。
 江戸期でいえば、戦国の夢を見続けた武士たちが戦場を求めた大坂の陣は、わかりやすい例だろう。最近の辞令で言えば、秋葉原通り魔事件もその一種だ。エネルギーの発散と自身が貧窮する姿の顕示を求めたという点では、大坂の陣に共通している。したがって、近い将来、そういった不安定な事象が増える可能性を否定しづらい。

 すでに富める側・安定した側は、その立場を守ることに必死で、そうでない側は、豊かさへの攻撃性をさらに高めてゆく。
 これが、相互共感になるためには、豊かとされる側における一定以上の社会負担と、貧しいとされる側では日々の幸せを噛み締めて助け合う体制が必要になる。

 おそらく、江戸期の日本はそうやって全体の安定を目指して、事実そうなった。士族や商人が社会負担を疎かにした時は一揆が起き、助け合いが減った時は一般犯罪が増えることが繰り返されたのだろう。要はその調整だけで事が足りていた。

 先ほどの文章の続きを抜粋する。
 
私たち日本人もまたそんなふうにして、失うべきではないものを捨て値で売り払ってしまった。それがどれほどかけがえのないものであったのかを私たちは半世紀かけてゆっくり悔いている。
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ・・・そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に浸みて感じている。

 東京オリンピックの時も、ずいぶんとコミュニティの原点となる町並みが消えていった。首都高速になり地下鉄になり、高層ビルやマンションになり、経済拡大に備えた都・東京が完成していく。目に見える豊かさは東京に集積され、周辺の人々の頭の中にはますます「豊かさへの憧れ」が支配する。
 同時に豊かさの分配も行われていて、田中角栄の日本列島改造論に代表される地方インフラへの投資、あるいは70~80年代の革新知事・市長たちによる福祉政策の強化などが挙げられる。これらが実施されていなければ、恐らく憧れの反動が恨みになって混乱が起きていたかもしれない。

 この構図は今でも続いている。
 だが、そのまま引きずっていては「次の時代」に対応できない。

 次の時代とは、富の集積と分散を中央がやる時代ではなくなる。
 戦後経済は、政府(通商産業省など)や商社が貿易調整を軸に旗振り役を務めていた。だが、現在では、大手企業か、あるいは情報技術や交通網の発達がその穴を埋めており、東京が必須ではなくなった(例・トヨタの名古屋駅前本社)。先の記事などでも書いたように価値観が分散・多様化したため、インテリなら東京で立身出世をはかって高収入などという、従来の図式が崩れ去ってきている。
 
 そういえば、地方の若者は東京に憧れなくなってきた。在京費用のわりには得られるものが少ないと判断する傾向があるからだろう。天下のでさえ志願者の7割は関東出身というから、憧れの無効化はじわじわ進んでいる。

 早慶“大阪夏の陣” 受験生獲得へオープンキャンパス 関西私大は東京進出  …産経新聞
 …早慶がこれまで地方試験をやらずに済んでいたのが異常かもしれない。

 拡大への憧れで、貧しさや弱さなどの欠点を覆い隠せる時勢は終わった。そのうえ、欠点自体を極小化すべく、以前ほどに豊かさの分配ができるわけでもない。今後は、そういった欠点の数々を肯定して、うまく共存できるやさしい世の中を築くほうが良い。貧富お互いの共感を醸成して、助け合い、多数の安心感を得る。やがて凶悪犯罪などの源は、無くなりはしないだろうけど減っていくだろう。。

 まとめて言うと、

 貧しい者は
 豊かな者の苦労を理解・尊敬して、うらやましがらないこと。
 施しを求め乞うのは最終手段として、まず助け合うこと。 

 豊かな者は
 周囲の働きを感謝・尊重して、己に富が集中して当然と思わないこと。 
 貧しい者が納得する程度の社会負担をもつこと。

 そういう共感を持ち得ない×な輩どもが、生きづらくなる世の中が望ましい。

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