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勉強は1時間でやめろ

 幼馴染のP君(ヤーニン君ではない)は、予備校にも行かずに京大理系に現役合格して修士まで進み、エンジニアの道を歩いている。その弟も国立大に現役合格と、まさに親孝行の典型ともいえる兄弟だ。

 高校生時代、自室からもP君が学習しているであろう窓の明かりから判断しても、私の10倍は自習時間に費やしていたはずだ。それに同じ府立でも彼の高校は評判の進学校で、学習時間の通算は日に10時間を越えたであろう。それぐらいP君は学問が好きだったから、『勉強』と表現するのは彼に対して失礼だ。

 『勉強』が本来もつ意味は「つとめて励む」である。
 値引き交渉の時に、店員が「勉強しますわ」というのは正しい用法で、要は無理でもやります!という意思表現にあたる。もともと、自習のことを勉強なんて言わなかったはずで、出来る限り一定の生産力になるよう強制された、昭和初期以降にはやった表現ではないかと勝手に思っているぐらいだ。

 文部科学省で定めた学問が好きな人なんてそんなにいない。他の試験向けでもそう、自分が好きでもないことを学ぶ時は『勉強』であり、そうでないときは、ただの「学習」か、遊びだ(笑)。

 同じく高校時代のころ、地域の寄り合いから帰ってきた父がつぶやいた。

 「Pさんは大学出てはるから、話の内容が違うわ…」

 PさんとはP君の父のことで、歳を食った後で生じる高等教育の効果を、父は私に暗示したのだろう。とはいえ、その父は60過ぎても働き、週末に野球、夜は読書と相変わらず人生を楽しんでいる。職人ではなく大卒のサラリーマンになっていれば、今の生活はなかっただろう。
 『どちらを選ぶもお前の勝手や』が、父の本当の思いだとわかったのは、最近のことである。

 アホやから、せっかく金はあるらしいから大学に行こう。
 やむなく自宅でも勉強をはじめたのが、高校3年の終わりごろだった。

 ただし、没落して久しい当家は、「私学は現役のみ、国公立は一浪までで、いずれも通学圏。それ以外は自分で金を出せ」の条件がつけられる。とはいえ、私が属していたクラスは、私立文系対策と称して3年生のカリキュラムでの数学・理科は選択科目になっていた。

 仕方なく、センター試験を捨てて、某私学の傾向と対策に絞った。 これなら実質3ヶ月でもどうにかなるかもしれないと。で、一日90分以上は勉強しないとの目標だけを立て、それで試験に落ちればバイトして関東の大手私学を狙えばいいやと、適当に考えながらやっていた。

 その気楽さと、効率性が良かったのか、幸いにして(まぐれで)現役合格した。今思えば、試験6ヶ月前から一日60分以内にしていれば、もっと上を狙えたかもしれない。別に後悔はしてないが。


 勉強は1時間でやめろ!とお勧めする。

 もちろん、好きになって興味をもって『勉強』ではない状態にするのがベストだが、やむを得ず勉強した際に、1時間越えてもわからないことはわからないのだ。集中なんて永続するわけがない。

 昭和のような、誰もが一定水準の教養(というより知識)を強制される時流ではなくなったのだから、中学レベルを過ぎれば(小学レベルでもいいかも)、好きなことだけを学べばよい。15、6歳を過ぎても、大半の若者に同方向の勉強をさせるなんて、Mottainai!!

 逆に興味関心がハッキリしていなかったり、技能や芸を身に着けることが難しいのであれば、文部科学省が定める標準的な学問を勉強して、大学やその先に進学すれよい。そんな発想を父が身をもって教えてくれたから、私はそうしただけだ。

 というわけで、15年も前の話なので、今の受験生とは状況は違うとは思う。
 同世代人口が減っているなど、別の事情もあるだろう。

 だが、長続きする勉強など存在しない原則は、今も昔も変わらない。 

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