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差別されない障害者は辛い?

多様性は大事。そんなことは大前提ではあるが、何でもかんでも色々な人を集めれば良いというものではない。それぞれの場には、適した人の枠というものがあるはずだ。
2年ほど前、内容を誤解して揚重のバイトに参加したことがあった。エレベーター等で運べない、ユニットバスやキッチンを納入する作業である。
当然私は、使い物にはならなかった。消防士志望の若者など、腕に覚えのある人ばかりであり、二日で辞めたものだ。まさに場違い。私は居てはならない人だった。

※以下、微妙な話題であるため、一部の方には表現に不快を覚えられることがあるかもしれません。友人限定とさせていただいることもあわせて、ご理解くださいませ。

何より心ぐるしいのは、障害をお持ちの方への対応だ。
ある団体のイベントに限って出会う若者がいる。すると、作業を一瞬離れたパソコンを勝手にいじったり、頼まれもしないのにCDを持ってきて勝手に鳴らし始める・・・
後者は何度も注意してきたことなので、流石に叱らせてもらった。しばらくシュンとしたが、気を取り直させると、また友達のように接してくる。つまり、主催者を含む参加者の中で、私がもっとも相手をしているらしく、話もしやすいらしい。いっぽうで、ご年配方たちなどは、自然とスルーされていた。それも悪くないし、彼から寄っていかないというのもあるが。

「また何かあれば誘ってください」との問いに、「ごめん、もう閉めるつもりだから、ないよ」と返しても、また聞いてくる。とはいえ、私との連絡手段がないから、毎回それきりになるのだが・・・

生まれ持って自己統制力が少ないのは仕方がない。彼は悪意があってやってるわけではないはずだ。言われれば過失に気づくようだが、また忘れてしまうのだろう・・・

仮に私が主催するイベントに呼んだとしても、やんわり相手にされず孤独を味わう彼が気の毒になってしまうだろう。迷惑をかけられても文句が言えない他の参加者にしても、手間取ってしまう私にしても気の毒になってしまう。
やはり、誘わないほうが、波風が立たないだろうと判断した。

似たようなことが、国会にも言える。
それぞれの議員の態度をもって多様な意見を代表するのは当然だけど、状況把握と表現能力については、一定以上あってもらわねば役に立たない。できるだけ、頭の不自由な方は参加してほしくない。そこのところを読んで投票判断をするのは難しいが、今のところ代議制民主主義より良い策を仕組めてない以上、やるしかない。

あの話題になっている自民党の憲法草案だが、さらに多様性がうたわれているようだ。
法の下の平等を説く第十四条を見ると、差別されない要件に「障害の有無」が加えられている。現行の日本国憲法になかったのは意外ではあるが、果たして、どこまで本気で取り組むつもりだろうか。
少なくとも、今の私は器量不足であり、完全無欠の多様化には取り組めない。それ以上に、多様化の難しさを人々に押し付けるつもりはない。
お互いに、なるべく不快にならないようには努めるが、一方的に自由を貫いて、私や周囲の人々の余裕を奪うまでになれば、対処を考えさせていただく。

自民党の憲法草案は第十四条の一方で、第十二条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と書き加えている。国民ではなく国の動きを規制するのが憲法の目的である以上、ここまで書くことではない(この点でも自民案には反対)。
だがしかし、真っ当なことを言っている。憲法ではなく、刑法か民法系統で権利濫用に関する条文を強化するなり(たぶんあるのだろう)すればいい。

自由でいられるのは、誰かの働きがあってのこと。
もしかすると、先述の障害をもつ若者は、私にそいつを教えにきてくれたのかもしれない。本人に自覚はないだろうが、感謝。

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