義理チョコの代わりに社会貢献を。
えー、もし私なぞに、義理でもチョコレートを下さる殊勝な方がいらしたら、その労力や資金を社会貢献に振り向けてやってください。
「また結果報告します」でもいいし、
だいぶ経った後で「こんなことしたよ~♪」と教えてくれるだけで嬉しいです。
社会貢献といっても小さなもので構いません。
例えば…
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えー、もし私なぞに、義理でもチョコレートを下さる殊勝な方がいらしたら、その労力や資金を社会貢献に振り向けてやってください。
「また結果報告します」でもいいし、
だいぶ経った後で「こんなことしたよ~♪」と教えてくれるだけで嬉しいです。
社会貢献といっても小さなもので構いません。
例えば…
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人間関係への自信は、ローティーン、15歳ぐらいまでの経験で確定すると思う。
この時期までに好かれなかった印象が強いほど、二十代になろうが三十代になろうとも、一定の対人不信感を持ち続けることになるだろう。特に心理学的な根拠もないから断定はしないが、私自身や周囲を見渡してみて、確実にこの傾向がみられる。
ローティーンの頃を思い出してみる。
まず、幼馴染の某君は、そのキャラクターから勝手に男友達から好かれたので、同性への態度は多少横柄だ(ただし面構えは謙虚なのである)。だが、異性に対してはしっかりと敬意を取り続ける。
対して私は、今以上に舌禍をコントロールできなかったため、始めから自信のある番長クラスやエリート集団とは「近藤は面白いこと言いよる」と仲が良くても、チンピラタイプの数人に取り囲まれるケースが多かった。不満を感じたとしても言葉で訴えることはなく、多数で奇襲をかけてくる。
今でも、政財界を含む偉いさんよりも、チンピラが列を成す姿のほうがよっぽど恐い。さすがに後ずさりするビビリはなくなったけど、要らぬ恨みを買わぬようにと、より言葉の向き先に気を使うようになった。
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幸いにしてお誘いがあり、様々な場でお話させていただいている。
単純に飲み会だったり、母校の企画だったり、合コンの類もある。(相変わらず勤め先がらみがない・苦笑)
その中で、あらためて強くなった感想がある。
表情豊かでお話も面白く容貌も良い女性が、もてない理由だ。
ようやくにして明確になってきた。
自戒をこめつつ、書いていく。
1.悪いことを一切言わない。(悪口を全く言わない)
2.付き合いが広い。(その人の職業の割には)
共通するのは、「本音が見えづらい」ことだ。これは男の私自身にも共通していえることだが、『仮にこの人と付き合っても、色々と案じなければいけない』と異性に思われてしまっては、深い付き合いになりづらい。
悪口がなければ目先の不快感はないだろうが、「気を使わせているんだろうな」と思ったり、あるいはその裏にある意味などを想像してしまえば、それこそ辛くなる。なにより、たまに不満や愚痴を述べた時には、『何だ、実はこんな批判心を持っていたんだ』と、これまでの態度と比較されて、過剰に悪い人に見えてしまう。
2.の付き合いが広いことも、それ自体はプラス材料で、さらに人脈を繋ぐハブとしては大いに期待されるだろう。が、一歩進めて恋人関係とか生涯の伴侶になろうと思えば、かえって不安材料になる。営業マンとか政治家とか職業上の付き合いならともかくも、『あんなに大切な人が一杯いて、本当に自分を重視してくれるんだろうか』と思われるのは人情だろう。
いずれも無難を目指しているのだろうが、多少賢い男(女)からすれば、悪口がないことや付き合いが多いことは、取り繕うのが上手いことを示しているといえ、人間味を感じられなくなる。
そういえば、こういう方々は(私も2.で当てはまる)、空気が読めないと言われる異性(同性も)から好かれるケースが少なくない。そらそうや、表面上のアドバンテージを鵜呑みにすることを「空気が読めない」と言うんやから。
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台風の下、こういう話をするのもなんやけど、
いや、『その前に、お前が身を固めてからモノを言え』というお叱りをいただくのをわかっていながらあえて触れる話題だが、
杉浦太陽と辻ちゃんしかり、中村獅童と竹内結子しかり。
あるいは、北野武監督の令息令嬢のお2人しかり。
できちゃった婚が流行りつつある。
出生率低下に歯止めをかける良い傾向だという意見もある。
が、大局で見れば、地球上のホモサピエンスが増えすぎていいわけはない。
新たな気候変動の兆しがみえる地球上の食料生産増加は限界に近づき、エネルギーその他の資源も底がつきかけている。だとすれば、まず、この星で食物連鎖の頂点にいる「先進国」のホモサピエンスが減っていくのは当然だろう。生態学(英語でecology)の大原則だ。
(^_^;)…大局は置いておき、
親とその子の話に限定しても、「できちゃった」は不利な側面が多い。
1.出産~養育までの経済環境を準備できていない。
→いい教育が受けさせられない。
2.母となる人の社会活動をペースダウンするする準備が出来ていない。
→母(妻)の不完全燃焼が後の生活判断に祟る可能性が。
3.父となる人もその心構えができていない。
→案外、重要なファクターかも。
4.まず夫妻としての相性を確認しないままに父母となる可能性高し。
→子が仲が悪い両親を見せ付けられる危険性大
ある知人は、学生時代に始めて付き合った子とお互い始めての組み合わせで、子ができてしまって結婚した。
結果、夫(父)は、妻(母)の父からの要求を全面的に受け入れざるをえず、妻の地元への転居と就職が条件となった。彼・彼女は大学を中退して、彼は速やかに職探しに移った。
現時点では、1.2.3.の条件に当てはまってしまっている。どうか上記の条件の通りとならないよう、健闘を祈る。
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「接して漏らさず」という言葉がある。
その昔、プレイボーイが心がけた行動原則らしい。
女性とは大いに触れあい楽しむが、男固有の液体は出さない。
「子が生まれる」という条件を容認できない限り、漏らすことは一切避けた。
仮に漏らしたとしても、せめて1.の条件・経済環境だけは整えた。
我が同郷人で明治の事業家・木村荘平は、愛人を東京各所にある牛鍋屋「いろは」の店長格として採用し、生まれた子達もそれぞれの店で養育されるよう手配した。画家・木村荘八や映画監督・木村荘十は彼の多くの子の一人だ。リンク
イスラム教の聖典「コーラン」は妻を4人まで持てるとするが、愛情を平等に注ぎ、かつ不自由なく暮らせる経済環境を妻とその子すべてに与えることを条件に説いている。
#だから、「妾」とは書いていない。まあ、4人というのはマホメット自身の妻の数だったらしいが、それ以上に金持ちが見境無く妻の数を増やすのを制限した意味もあるという。
また、私生児率が高いとされる北欧諸国も、重税をかけるかわりに私生児であろうが何であろうが国家や公共が子育てを背負う覚悟をもった社会制度を持っている。
#あるいはそういう社会制度だから「出来ちゃった」に持ち込みやすいのだろう。親と子の個性の継承を一切無視できるなら、この制度もありかもしれんが、俺はあまり好きではない。
キリスト教その他の影響を含めてわが国に一夫一妻制が持ち込まれて百年以上が経つが、いずれにせよ、「漏らすならそれ相当の覚悟をせよ」とのお達しは、これからの男も肝に銘ぜねばならない。
…
んまー
「できちゃった覚悟恋愛」なら、大賛成やけどねえ。
そんな奴、居らんわぁ。(大木こだま師匠の口調で)
だったら、既に結婚するなり、家計まで一緒にして同棲ぐらいしてるわなぁ…
…
ただ、
あんまり男に抑制を強いると、性犯罪が増えそうな気がする。
静岡県で5歳少女が婦女暴行犯?を刺殺した事件が報道されて、いい抑止にはなるかもしれないけど、それでも増える方向やないかな・・・毎日新聞、静岡新聞
風俗行くな=気持ち悪いと封じ込まれる空気がある反面、周囲の女性が男との接触を絞り込んでいる(ようにみえる)環境の男性ってどうなんだろう。結構いるんじゃないだろうか。
だったら、できちゃった婚以前の問題やねえ・・・
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しかしまあ、勤め先は社内結婚の多いこと。同期26人中7名(同期内2組)と、高打率である。奥様に元部下をもつ管理職は、俺が知っているだけで3名。500人程度の会社でこれだ。
珍しいことのように思えるけど、実はそうでもない。
江戸時代いや昭和の初期ぐらいとかであれば、数百人の村の中で祝言を上げることよくあっただろうし、自分の家系をたどっても、祖母の妹などは従兄弟(つまり曾祖母の実家に)に嫁入りしている。
また、昔の結婚式は「人前式」が主流であったという。
生活空間、世間をともにする人々を招いて、二人がともに歩んでいくことを宣言する儀式。まさに披露宴といえる。先述の祖母も「人前式」だったことが、60年前の写真に伺える。
だいたい、生活時間の多くをともにして、自然と愛情が込みあがっていくのが普通である。それがヒトの本能だ。俺のような、他市出身在住かつ他団体所属者しか付き合ったことがない人間のほうが、そもそも珍しい。
社内結婚といえば、後ろめたいイメージが付きまとう。まわりからいろいろ言われるのを嫌がるのだろうか、知人の男性も同僚との結婚を一切報告せず、恒例である同期うちの飲み会も行われなかったという。
実は、俺も色々言われるのを嫌がるたちで、「クラス(ゼミ)内」「社内」とかいわれると、どうも二の足を踏んでしまう。その結果、人間関係が悪くなって、自分自身も不利な目に合うのではないかと考えてしまう。おそらく、そう悩む人が現代の主流だろう。
「お互いが怒られている姿を見たくないから」
と、社内結婚をしてから前の会社を辞めた元上司。
そう、いまの会社組織、難しく言えば資本主義の発想では、夫婦であっても労働者同士であれば、ときに競争相手にもなる存在とされる。少しでも多くの収益を経営者を通じて資本家に提供するのが優秀な労働者であり、給与も高くなるからだ。
資本主義とは、職場恋愛に対しては実に冷たいものであり、近くの異性を愛しやすい動物・ヒトの本能から遠く離れた存在だと思う。(共産主義はもっと冷たい。労働者同士は対等でしかなく、その意思は無視された存在であり、計画生産活動の邪魔になることは恋愛結婚以外の生活も制約される。)
同じ土地や空間で、自然に生じた相性を育んで何が悪い?
なんにせよ、歴史物でみる夫婦のほうが幸せに思えてしまう。他の家族との政略結婚で生活を守る貴顕諸侯や大商人のそれではなく、一般庶民のなれ初め話に温かみを感じる。近場でくっついたとしても、文句がいわれにくいのだ。
それが「自然」だからである。
今月末で一人の同期が辞める。
転職で東京を離れる元同僚の夫についていくためだという。
これで夫妻ともに当社を去ることになり、わが勤め先は本気で甘い。
だが、いい話ではないか。
ヒトの本能を肯定している。
気がつけば、クリスマスが終わっていた。
ヒトの本来の姿から遠いのは、俺のほうだろう。
まあいいか。
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ここ最近、さらに仕事関係以外の人とのやり取りが減っている。
大学を卒業して東京に出て4・5年目ぐらいまでは、退社後の時間を消費する交流の98%ぐらいが社外との人間関係だった。
学生時代からのボランティア活動づきあいを始め、職業柄、他社を含めてオンラインの関係から手を伸ばすなど、様々なルートから人脈を広げてきたのだ。
だが、実体としてはあまりにも薄い薄いものだということを、あらためて認識している。
重ねて、以前の俺が特異だったと言うほかない。
多くの人々は生活圏内の範疇で人間関係をはぐくみ、その相互理解の深さで幸せを味わう。社縁、地縁、血縁、色々あるだろうが、それぞれが得た宿命にうまく沿って、絡み合っていくのが普通である。
人脈の広さは、事業を達成する手がかり、つまり社会的な要素としては確かにプラスだ。とはいえ、個人の安寧を保つための基礎値としては当てにならない。
俺自身、私事のみで名刺を1200枚ほど頂いたが、顔が完全に一致するのは半分、連絡が取れるのはその半分、実際に友人と言えるのはそのまた半分といった具合だ。
30歳になる同級生たちのなかで結婚しているのは、むしろ行動範囲が狭かったと思えるタイプに多い。
5年ほど前の同窓会、高校時代のクラスメイト・Nがこう言った。
「近藤、新幹線乗ってきたんか。俺はほとんど乗らへんしなあ、うらやましいわ。」
Nの発言は動きの少ないヤツやと自嘲しているように見える。だが、Nは25歳の時点ですでに妻子もちで、なかなかの男前である。つまり、いろいろ動かず目移りしなかったことが、早くにいい嫁さんをもらう、つまり相手を絞り込む結果を生んだのだろう。(ちなみになりたい職業アンケートで「職人」と書いたのはNと俺だけだった。この違いはなんだろうか?)
付き合いたい・結婚したい相手を絞らないのは、ほんとうに「モテる」奴か、「モテようと思っている」奴のどちらかだ。ここで言う「モテる」の範囲は、異性はもちろん同性からの好意・人望をも含む。
となれば、俺は愚かにも、後者のにおいが強かった。
さらにモテようと思うから、行動範囲を広げる。
メアドや名刺をいっぱいもらえるように振舞う。
だが、これの繰り返しになれると、一瞬の注目を浴びたり、人間関係の発端が生まれるだけで満足するようになり、深い人間関係が生まれにくくなる。
なにより、自分と深い関係を持ちたいと思ってくれている相手から、その広さ(薄さ)を嫌われて敬遠されることだろう・・・
数や量ばかりを追い、永遠に心が休まらず満たされない悪循環。
お金の世界でいえば一部の投資家や目標管理主義者と同じような、人脈拡大主義者も似たような不幸?(あえて?をつける)に見舞われる。欲の鎖から抜け出せない。
そう思うと、連絡が減った状況は悪循環から抜け出す大チャンスではないかと。
頭の中ではわかっていたことが、やっと心底から感ずるようになってきた。
すくなくともNは、俺より5年早く気づいていたのだろう。
しばらく、己を追い込んでみようと思う。
今までよりもっと、人の流れを自然に任せてみる。
自ら広げるという欲はさらに捨て、あるがままを受け入れるべし。
そう考えているこの頃だ。
参考:以前の拙筆:モテない男になりたいへ
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モテる男ほど不幸。
こう言ってしまえば、私がモテない男の代表のように思われてしまうが、大真面目の話だ。
モテる男は女を安心させられない。当たり前だが、モテ男と付き合っているあるいは結婚している女性は、自分の元を連れ合いが離れるかどうかが常に気がかりになり、情が薄くならないように励まねばならない。やはり緊張の連続は疲れるから、芸能人やプレイボーイほど離婚の回数が多いのは良くわかる。
木村拓哉に人気があるのも、「安心したい」女性の気持ちが後押ししている。
彼自身は自分の顔に自信を持たないうえ、三枚目に近い言動をとる。明石家さんまと極めて仲が良いことでも現れるように、「自分を笑ってくれ」との態度がとれる謙虚な男だ。
また、職場のことかプライベートのことかは忘れたが、デブでブサイクな男だけを彼氏にする女性がいるらしい。彼女をみると上戸彩系の魅力ある容貌の持ち主であり、あきらかにモテ女の部類だ。が、この話を教えてくれた別の後輩いわく、「男前だと安心できないからよ」と説明してくれた。
やはりそうなのか。特に女性にとって、安心できるというのは重大な要素らしい。
私は別として、若い頃の父がモテる?人であった。
母の話によると、結婚を前にした父は引き出し一杯のラブレターを公開してみせたという。
『隠し事はありません』というのか、『結局はこれらの女をモノにできなかった、甲斐性のない男です』といったところか。
結果、我が両親は30年以上を経た今も円満であり、時折の喧嘩はあるものの、小旅行に出かけたりなど再び訪れたハネムーンを楽しんでいる節がある。
だから俺は、良い意味で「モテない男」になりたい。
野球友達が孫持ちばかりという父を思い出しては、そう考える歳になった。
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ある日の京浜東北線、時間は夜9時過ぎ。ある男女連れが私の前に座った。
その女性のいやらしい(エロい)こと。思わずゾクッと来たが、同時にある種の怖さを感じた。まてよ、これはあの時と同じ・・・
以前、ある知人の大学での後輩として紹介された女性を思い出した。ビジュアル系ボーカルにいそうな美人で、英語が堪能でUNIX系の開発にも長ける才媛である。
しかし、一目見た瞬間に怖さというのか、人を不幸に呼び込む何かがかもし出されていた。自分から挨拶することはまずなく、徹底して人(特に男)を下に見ているくせに、注目はされたいという態度。
これを「女の妖気」とでも呼ぼうか。
あとで聞いたところ、彼女は何度かの不倫経験があり、裁判沙汰になったこともあるそうだ。会った後も何がしかの騒ぎを起こしているらしい。既婚の年上の男たちと・・・・
と、ボーカル系顔の彼女のことを思い出していた。
夜の京浜東北線。そういえば二人はホテルが数多くある某駅からの乗車である。電車が東京に着くと二人は降り、手も繋がずに階段に消えていく。
ああ、さまざまな関係を勝手に想像しつつ、男女の姿を見送る。
妖気?はまたも私の前から遠ざかっていった。
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「これはいい」と思う20歳前後の若手俳優やタレントに共通する特徴が、『叩き上げ』であることだ。スカウトされ事務所(やその他支援勢力)の後押しなどでスター街道を走るタイプよりも、子役や端役から始めて何度もオーディションを受けているような、いかにも下積みの香りがする人が好きなのである。
これは私の幼児体験にも原因があるらしい。
協調性が低くて(横から「今でもそうや」とツッコミが来そうな。すみません...)球技が下手だったり、学校で誉められるような事は一つもなく、いい思い出の少ない少年時代で何が苦痛だったかといえば、勉強もスポーツも出来る同級生の存在だった。『デキる』ことを当然として、有形無形に明示的暗示的に自分の偉さを主張してくる。鼻にかけるヤツ、ほんとうに消えて欲しかった。
もちろん、文武両道でも謙虚な同級生もいて、彼とは今も連絡を取れる状態にある。だが、私の少年時代の経験では、慎ましくて『デキる』人にはそうお目にかかれなかった。すでに、スカウトされるような天才少年少女は「威張る」というのが、動きがたい観念になっている。単純に不快なのだ。いや、私だけでなく周囲も不快だろう。
そういうことを思い出しつつ最近の若手俳優をながめると、本仮屋ユイカさんが気になってきた。
大変失礼ながら、彼女はモデルにもなれるタイプの「美人」ではない。本人も心得ているのか、あくまで演技力で勝負する姿勢が強く、話ぶりを聞いても周囲への気遣いが良くうかがえる。子役から数々の鍛錬を経て、ついにNHK朝ドラの主役を射止めるまでに至った彼女は、若いながら『叩き上げ』の感性をもっているのだろう。
さらに調べてみると、母子家庭で妹と祖母の4人暮らし。家系的には名門らしいが有利とはいえない環境から下積みを重ねた、明らかに苦労人である。いや、彼女の多弁ぶりをみると「明るい苦労人」というべきか。
つまり、自分の力や立場、特性について分をわきまえており、そのなかで最大限以上のパフォーマンスを発揮しようという姿が美しい。なにより『私は偉いわよ』『私は綺麗』などといった自惚れや虚栄心が見られず、5歳の時にあこがれた山口百恵さん以来の感動を覚えたのだ…
以前にもまして、私は「見た目」以外の部分をみるようになってきた。年齢もあるのかもしれないが、話しぶりや行動パターンから、その人の物事や周囲の人々に対する姿勢を注視する癖が強まっている。自分の力や立場におごった人が幸せになった例を見た事がないから、私はそこが気になるのだ。
その点『叩き上げ』の人々は、いきなり得た立場ではないだけに威張るそぶりも見せず淡々とやれるケースが多い。必要以上の自己顕示はいらない、邪魔だ。
若手俳優さんにかかわらず、最近私がお話したくなるタイプの人にはこの系統が増えている。
しつこいようだが、『叩き上げ』は美しい。
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カテゴリは「恋愛」にしたけれども、ビジネス指南書にもなるだろう。
家族にせよ、会社にせよ、二人以上の人が集まれば社会が出来上がるわけで、知らないことと知っていることとの差が間に生まれる。知るものがその他に教え、あるいは知らざるものが習い盗み取り、そうやってその社会集団の常識が形作られていく。
学生時代、特にサークルの『常識』といえば、誰と誰が付き合っているかという「人間関係図」が中心ではないだろうか。その前の中高時代とも、その後の社会人時代とも違う、純粋に男女関係がどうのこうのといった恋愛話である。
30人規模のサークルがあったとすれば、必ず噂好きの情報屋がいて、そいつにばらすと瞬く間に話が広まり、真偽の別は関係なく集団の『常識』となってしまう。何かの用事で二人きりでお茶しただけで『アイツはできてるわ』と言われたことは、多くの人が経験したことだと思う。逆に情報屋から頼みもしないのに、誰と誰が付き合っているなどの噂を吹き込まれることもあったはずだ。
情報屋がやり取りする話が全て真実であればよいが、時には自分の立場を陥れるような内容であったりする。そうならないように、「アイツには話すな」などの自分の身を守る常識が浸透するわけだが、情報屋の動きを自分のために利用する賢い人も出てくる。
仮に、その賢い人に私がなってみたとしよう。ある女性Aと私が仲がいいという既成事実を作り、他の男を彼女に寄せ付けなくする意図で会話を進めたい。
近藤:おい、最近いろいろ悩みがあんねん。
情報屋:何や、お前らしゅうない。いつもうるさい奴が。
近藤:勝手に悩みのないアホあつかいすんな。実はな…
情報屋:フムフム。
近藤:こら、その教育番組のキャラみたいな相槌はなんやねん。まあええわ。
情報屋:それからそれから?
近藤:俺は「おにいさん」と違うわ。やめとけ。
情報屋:わかったわい。で?
近藤:打ち上げの後、Aさんとな波長が合うてしもうて、そのまま朝までつき合うてもろたんや。
情報屋:おおー、お前やるなあ。「近藤はAを食うた」と、メモメモ…
近藤:アホか、誰もそこまで言うてへんぞ。ほんでな、お前これどう思う?
情報屋:そこまでいったら、Aに気ィあるんと違うか…
近藤:やっぱ、そう思うやろ・・
この話(あくまで作り話だが)、私とAはともに終電に遅れ、他の2、3人とともにカラオケと深夜喫茶で夜を明かしたに過ぎない。波長が合ったの事実でも、ホテルへ持ち帰りに成功したわけでもなく、「やむを得ず」の範囲で収まる状況だ。嘘はついていない。しかし、情報屋は瞬く間に話を広げて周囲にばら撒く。『近藤はAと出来ているらしい』と。
そのうち、私とAの関係が既成事実となり、ほかの男がAを敬遠するか、もしくはAを狙っていた男が浮き彫りになってくる。自分で広めていればただの妄想と捉えられかねない話でも、第三者である情報屋が広めてくれれば信用度も増し、状況にも変化がでて対処がしやすくなるのである。
実は、一般社会でも同じ構図がとられていることに気づく。意図的に情報屋を務めているのが、民間であれば広告代理店。公的機関であれば米国の CIAやNSA、英国ならMI6、イスラエルのモサドなど、自分たちや顧客に都合のいい情報が、『常識』になるよう日夜努力している。第三者の信用をつけたければ、各マスコミやさまざまな批評家、タレントなどの発言力のある人物を巻き込めばよい。さらに、かき集めた個人情報で対象となる集団を限定しておけば、ますます効率があがる。つまり、意図と対象が明確になった時点で情報屋は広告マンや諜報員に進化する。
それが、善意や公共の利益になるよう動いていればよいが、なかには悪意で情報工作をするものがいるだろう。いや、民間公共の違いに関わらず、一定の割合で悪意の工作者は存在する。それを見抜く力をつけるのも情報戦の重要なかぎであり、広告宣伝行為があふれている以上、身を引き締めねばならない。
ますます、面倒くさい世の中になったと思わずに、まずは身の回りから体感して学ぶのが近道だろう。その適所としてサークル活動をあげてみた。もちろん学生、社会人をとわないし、なによりも自分の社会地位が奪われる可能性が低く、訓練にはうってつけだ。
ただし、先述のように情報屋を通じた意図的な宣伝をして、場を荒らすのはお勧めしない。あくまで、自分の身を守るための情報判断力をつけられるよう願う。平和がイチバン!(by猪木氏)
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